雷鳥の歴史について
すんません、あんまり雷鳥とは関係ない話が多いです。
友人曰く「お前のコンピューター歴みたいだ」だそうです。
1992/12

大学四年の冬、卒論は何で書こうかなーと考えている所に、友人が TeX という ものを持ってきた。それまでに、計算機室のパソコンに "TeX" というメニュー があり、これは何だろうと気にはなっていた。まずは、98 の DOS にインストー ルし、本屋で適当な参考書を使って卒論を書き上げた。

卒論はVzで書いたのだが、jlatex を呼び出す際にコマンドラインにいちいち降 りるのが面倒だった。たまたまVzには下田氏が作った簡単な jlatex 起動マクロ がついていたのだが、go32 版の UgoTeX は

パス名の \ を / に変更しないと文句を言う

ようになっていた。これは非常に不愉快であった。そのために

UNIX のあほー! パスのデリミタは \ にしやがれ

と、通常人と逆の文句を言う人間になってしまった。それでも何とか \ を / に 変更するマクロを作り、動くように改造した。また、頻度の高いコマンドを楽に 入れられるようにメニューを作って入力できるようにした。当然だが、

卒論が終わってから作業した

のである。普通の人は卒論の合間に、卒論のためとか適当な理由をつけて現実逃 避の材料にするのだが、私は偉かったので、そういうことはしなかった(単に忙 しすぎただけ)。


1993/2

マクロ改造をやっているときに、どうしてもわからない事が起きた。その事が何 だったか忘れたが、マクロの書き方の参考書が悪かったのは否定できない(アス キー刊 Vz を 256 倍使う本)。仕方がないので、ASCII-Net の junk.test とい う何でもノートに書きなぐってみた。実際の所、レスポンスがあるとは思わなかっ たのだが、広瀬氏が「ふつ〜 YaTeX」という意味不明なメッセージと、マクロに 関する意味不明な解答をつけてくれた。YaTeX とは (D)Emacs 上で動く、TeX 入 力支援環境である。私は、Emacs とい言葉は聞いた事があったが、どんなものか は知らなかったので、とりあえず、ASCII-Net から Demacs をフルセットダウン ロードしてみた。ちなみに 1200bps のモデムを使用した。この挙動は広瀬氏に とって

かなり無謀にみえた(らしい)

また、私の profile を見た瞬間に

こいつはただ者ではないと思った(らしい)

まあ、そんな事はどうでもいい。

さて、Demacs + YaTeX を使ってみたところ YaTeXはなかなか賢いという評価を したが、Demacs に関しては

このエディタは恐ろしく使いにくい

と感じ、ますます UNIX 嫌いになってしまった。結局 YaTeX を使うのはやめて (というか Demacs が使えなかったので) Vz で似たような物を作りだした。この 時、

YaTeX == 野鳥

という呼び名に感銘を受けたので真似してさんざん考えた挙げ句

LaiTeX == 雷鳥

という名前を付けてみた。とりあえず、割とまともに動くようになったので、 testlab というソフトの試験場に持って行った。この時、LaiTeX という文 字を見た広瀬氏

この野郎、真似しやがって、と思った(らしい)

と同時に

くそー、雷鳥の方が名前が強そうやなあ、と悔しがった(らしい)
ほんとか。

いじるにつれて、どうも YaTeX の設計思想に近くなっていくのでいっそのこと 移植した方が早いと思った。これは「結局よいシステムに集束する」といういい 例ではないかと思ったのだが、どうだろうか。まあ、それは置いておいて、移植 に関して、おそるおそる広瀬氏に聞いてみたところ、

やー、Vz に移植したいなーと思ってたところやったんや

と快諾していただけた。これには私も驚いたが、一説によると、「ふつ〜 YaTeX」 と書いた時点で

しめしめ。こいつに Vz へ移植させたろ。うひょうひょ

と考えていたらしい。広瀬氏あなどりがたし...。


1993/6

研究室の Sun のワークステーションには vi しかなかった。vi は emacs の 100 倍は使いにくい(と思う)ので、しぶしぶ嫌いな emacs をいれる事にした。 しかし Sun は IP 接続していないかったのである。手元には 98 でよめるフロッ ピーしかない。無謀にも kermit を使って 98 から Sun へ

emacs フルセットをシリアル転送

した。無謀であった。二日ぐらいかかった記憶がある。しかも、バイナリ転送に しなかったので、いきなり gzip が通らないという大ボケもかましてしまった。 でもちゃんとインストールできた。えらいでしょ。


1993/9

研究室のワークステーションが internet に接続した。我々は物理屋なので、 UNIX の管理をできる人間がほとんどいない。私は UNIX がかなり嫌いな人間に 成長していたのだが、電子メールが使えないと困るので、

root でもないのに勝手に sendmail.cf を書き換えた

りしていた。わかる人には想像がつくと思うが wheel の設定がされていなかっ たのである。実は root のパスワードは 5 回目で見破る事が出来た。セキュリ ティよわよわである。しかし、sendmail.cf を素人がいじるのが無茶な話で、結 局下田氏と広瀬氏にかなり助けてもらって、どうにかなった。

ちなみに今はセキュリティ上げたから大丈夫だよーん。


1993/10

研究発表で Fortran の計算コードを作っていた。発表の数日前にひょんなこと から

rm *.f

をしてしまった。コードはきれいさっぱりなくなり、バックアップもなく、後に 残ったのは計算結果とバイナリだけであった。この時のショックは結構でかかっ た。UNIX おそるべし。

このころ、広瀬氏らは 386BSD(98) に凝っていた。ちょうど、筑波大の情報系に 小栗氏がいて、彼に 386BSD(98) のフルセットを借りる事が出来た。98 に MS- DOS でない別の OS が走っていた。これは強烈であった。TeX の 10 倍くらい新 鮮だった。早速なけなしの金をはたいて、500M の HDD (10万円也)を買って、 PC-9801VX に Cx486 を載せて動かしてみた。しかし boot の途中でこけた。

なんで動かへんのや

これは困る。fj.os.386bsd に書いてみたところ、同様の症状の人がいて、既に 解決されていた。286 を Cx486 に変えて動かそうという

無謀な人間はやはり存在した

おそるべし、UNIX の世界...。

この変更はソースのある部分 HLT を NOP に帰るというそれだけであったが、こ れを行うにはカーネルを再構築しないといけない。そもそも boot しないのに カーネルの再構築なぞできるわけがない。

これは困った

結局 boot disk のイメージファイルをじかに Vz で読んで、手で場所を探して 手でバイナリパッチを当てるという、むちゃくちゃな方法を取った。そのくせ数 回の試行錯誤でうまくいった。自分で言うのもなんだが、

よくうまくいったもんだ

と思う。


1993/11

遅いけど X11 や Mule の使えるシステムを構築できて、結構快適に使えていた PC-9801VX。彼はある日帰らぬマシンとなった。何を考えたのかしないが、たま たま CPU ボードを外した後、ちゃんと刺さっている事を確認せずに電源を入れ てしまった。バチバチと二回音がして、ぷーんと焦げ臭い臭いがした。

これはやばい

と思ったが、時すでに遅し。二度と画面に MEMORY 640K OK とはでなかったので ある。修理に出してみたが、4 万かかると言われた。これは

中古の VX 本体が二つ買える値段であった

ので修理をやめた(VX は 2 万で手に入れた)。困ったので、新しいマシンを買う 事にした。私は中三の頃から 98 を使っている 98 君だったので、9821 を買お うと思っていた。

ところが、小栗氏に

BSD やるなら AT 機の方がいいんじゃない?

と言われて、それもそうだなーと思い、後輩の田中君にも互換機はいいっ すよーと言われ、そのうえ Pentium マシンを Gateway2000 が発表したので

これしかない

と思った。


1993/12

とりあえず、クリスマス頃に買えたら正月遊べるなー、などと調子のいい事を考 えていた。私は帰国子女だったので、FAX のやりとりや、電話でのやりとりは結 構お手のものだった。日本では FAX を送るとすぐに返事がくるが、アバウトな アメリカでは何度も送らないと返事がこないのである。FAX で質問をしても、ほ とんどまともな答は帰ってこない。仕方がないので国際電話をするが、自分の係 りの sales person は出てこない。国際電話で 10 分待たされたというのはザラ であった。結局、別の sales person に切り替えて、万事うまくいったはずであっ た。

アメリカでは普通通販にかかる時間は数週間である事をすっかり忘れていた。届 くのは一月の後半と思われた。

同時に買ったディスプレイはつなぐべきマシンもないので、小栗氏に貸出した。 小栗氏の修論もはかどったらしい。


1994/1

ある日、学校来ると、「牛がきている」という報告があったのでみると、確かに 牛柄の箱が届いている。しかし、どうも箱が小さい。開けてみると、中には

タワーでなくデスクトップの P5-60

が入っていた。いきなり注文と違うものが届いてしまった。これについては田中君らにさんざん馬鹿 にされた。すかさず Gateway2000 にクレームを出して、交換して貰う事になっ た。残念ながら返送費用はこちらもちである。3万5千円もした。しかも消費税は 次に来るときも取られたのである。いきなり個人輸入でつまづいてしまった。し かし、人によっては半年待ってもマシンが来ないと事がいう人あったそうだから、 なんとも言えない。


1994/2

やっと来たタワーの P5-66。いきなり PC-9801VX から Pentium 機へ乗り換えた という人はあまりいないのではないだろうか。まあ、プラズマセンター最速パソ コンの地位はその後一年近くも続いたのである(逆に言えばたった一年)。(;_;)

Windows なぞ要らない、と言っても勝手に付いてくるので困るのだが、もったい ないので、昔から遊びたかった MYST for Windows を買って遊んでみた。面白い のだが、何故かすぐハングするのである。これでは遊べない。やっぱり Windows はタコだ。あの中途半端な GUI (Mac の真似がしたいのなら Macintosh を買え ば良い)と、ハング率、config.sys をはじめとする無茶苦茶な設定ファイルの事 を考えると、

あんな OS 使ってる奴の気が知れない

と思う。まあ、向こうは向こうで

何が楽しくって UNIX 使ってるんだろう

とか思ってるはずなので、どっちもどっちかもしれないけど。Windows 至上主義 の人に Windows の何がいいのか、聞いてみたいものである。


1996/6

久しぶりに雷鳥のアップデートをしようと思って友達の 98note NS/R に電源を入れた。

「初期状態に戻りました。セットアップをして下さい。」

あーちょっと電源を入れないでほったらかしすぎたかな。えい。充電。そろそろ フル充電出来たかな? ほれバッテリチェック

「セカンドバッテリ:未接続」

なにー! セカンドバッテリはついてるわい。外してもう一度付ける。 しかし「セカンドバッテリ:未接続」状態は抜け出せなくなってしまったようだ。 簡単に言うと

壊れた

んだろうなあ...? あああーバッキー君ごめんなさい!


1996/7

白鳥にロゴ があってカッコいいので自分も作ってみた。が

なんてかっこわるいんだ

と思った。そうしたら広瀬氏

わしにもわしにもー

とだだをこねたので、ちょいちょいと書いた。 やっぱりカッコ悪い。くそー。


つづく。
つづかねーっての!
これを読んだ感想をお聞かせ下さい。